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カーソンは1907年アメリカのペンシルベニア州に生まれました。
子供の頃から文章を書くのが好きで、地道な努力家。
将来は作家になりたいと、児童雑誌へこつこつと投稿し、採用されたこともありました。
家は裕福ではありませんでしたが、家族の協力もあって女子大学へ進み、作家になるべく英文学を学び始めました。
しかし、2年生のときに受けた生物の授業に感動し、専攻を動物学に変更。
1920年代当時、大学院へ進む女性がほとんどいない中、彼女は優秀な成績で奨学金を獲得し、ジョンズ・ホプキンス大学大学院へと進学しました。
修士号を取った後、家族の生活を支えるため、特に若くして亡くなった姉の二人の子供を養育するため漁業局(日本の農林水産省のような機関)でパートタイマーとして働き始めました。
任された仕事は、海についてのラジオ番組の台本作り。
彼女は作家としての能力を発揮し、番組は好評。
その後公務員試験に合格し、当時の女性としては珍しい漁業局での専門職に抜擢されました。
海をテーマとした執筆活動を続け、1941年には「
潮風の下で
」を出版するも、戦争へ向かう世相の中では注目されませんでした。
1951年には2冊目の著書「
われらをめぐる海
」を出版し、ベストセラーに。
この機会に1冊目の「
潮風の下で
」を再版すると、これもベストセラーになりました。
実は以前から、漁業局で地位が上がり、事務的な仕事に忙殺されていたカーソンは、もっと作家としての仕事がしたいと考えていました。
そこで本が売れたことを機会に漁業局を退職し、フリーの作家になったのです。
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1958年、「農薬DTTによって小動物が死んでいる」という読者からの手紙を受け取ると、カーソンは本格的に農薬の環境に対する影響を調査し始めました。
1950年代のアメリカでは、害虫や雑草を取り除く目的ならば、ほとんど制限なく毒物の使用が認められていました。
そのため、化学薬品会社では農薬の危険性を十分に調査していなかったのです。
現在では周知のとおり、農薬や毒物は、微生物、昆虫、草などに蓄積され、食物連鎖にしたがって、それらを採取する動物へ濃縮されることで、動植物を死に至らしめます。
しかし当時は、これら農薬による環境汚染の危険性など、だれも考えていませんでした。
カーソンは、どこの研究機関にもグループにも属さず、たった一人で、農薬の危険性を調査していきました。
「このままでは、地球全体が汚染されてしまうだろう。
春が来ても、小鳥は鳴かず、世界は沈黙に包まれたままになってしまう。
とりかえしがつかないことが起ころうとしている」
当然、化学薬品業界を敵にまわすだろう。
州やアメリカ政府も圧力をかけてくるかもしれない。
しかし、彼女は科学者としての良心に従いました。
「もしも、私が沈黙を続けるならば、私の心に安らぎはおとずれないでしょう」
途中、最愛の母親の死に直面しました。
自身の病気、果てにはガンの発病。
命を振り絞り、夜となく昼となく執筆活動を続け、ついに1962年「
沈黙の春
」を出版しました。
科学的根拠のある衝撃的内容と、一般の人々にもわかりやすい文章で、世界的大ベストセラーになりました。
予想通りの中傷、批判もありましたが、彼女はものともしませんでした。
ついに翌年、ケネディ大統領が科学技術特別委員会に農薬問題に関する調査を依頼。
彼女が訴えた、農薬による環境汚染が本格的に調査されるようになったのです。
「
沈黙の春
」出版から2年後、レイチェル・カーソンは56歳の生涯を閉じました。
参考文献
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(感想)
レイチェル・カーソンが、「沈黙の春」を単独で調査し、フリーの作家の立場で書き上げたことに驚きました。
私は「沈黙の春」自体を読んだことはありませんが、カーソンはどこかの大学に属する研究者だと思い込んでいました。
彼女の生涯を知らなかったら、
「フリーの作家だったから、地位を追われる心配なく自由に書けた」
と思ってしまったかもしれませんが、実際は、
「地位に縛られず執筆活動をするために、官僚の道を捨ててフリーの作家になった」
ことがわかり、感動しました。