糸川博士の人生、研究遍歴はおもしろすぎ。
おそらく、ご本人は大真面目というか、興味や感性の赴くままに進まれたのだと思いますが、それにしてもおもしろい。
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男兄弟5人のうち、4人は東京帝国大学に学んだ秀才一家。
しかし、ご自身の小学校1年生の成績は最悪でした。
それは問題が解けなかったわけではなく、例えば、算数のテストでは
「えんぴつを転がして出た数字を書いたら、どのくらい正解するか」
つまり、確率の実験をしていたようです。
この実験がばれて、お母様にこっぴどく怒られてからは、やらなくなったそう。
小学校の頃、勉強をし始めたきっかけは、聡明なお母様が
「耳の不自由な友達に、真面目に勉強を教えてあげないとね」
と言った一言だったそうです。
博士は、勉強は自分のためにするものではないと理解し、友達の家庭教師をしてあげました。
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博士は東京帝国大学工学部を卒業後、航空機作りに一生をささげる決意で中島飛行機に入社。
日本を代表する戦闘機「隼」を開発しました。
太平洋戦争が始まる直前(1942年)、東京帝国大学工学部航空機体学科の助教授に就任。
しかし、戦後〜1950年代当時、ポツダム宣言により、日本では軍事利用可能な技術開発が規制されました。
当然、戦前に航空機開発をしていた博士への監視は厳しく、毎日行動調査書を書かされました。
航空機作りを断念させられた博士は、失意の中、秘策を思いつきます。
それは、アメリカ大使館の図書室で情報を集めること。
表向きは、音響や脳波の研究に着手する傍ら、敵の懐に入り込み、こつこつと航空に関する情報収集を続けました。
一方、米ソは国家プロジェクトとして、ロケットなど軍事技術の開発を進めていきました。
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脳波と麻酔の研究で評価された博士は、1953年シカゴ大学へ招聘されました。
その時、大学の図書館で資料を探していると「スペース・メディスン(宇宙医学)」の文字が目に入ってきました。
とっさに博士は悟りました。
「アメリカは、宇宙にロケットを飛ばすだけでなく、人を送り込もうとしている」
いても立ってもいられなくなった博士は、予定を繰り上げて帰国。
翌年には、東大にロケット作りの研究班を立ち上げたのです。
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研究には当然、頭脳だけでなく資金が必要です。
博士は1953年講演会を開き、三菱、東芝、日立、富士精密など13社に熱弁を振るい、その後も松下電器などを回って協力を呼びかけました。
結局、富士精密(現在のIHIエアロスペース社、日産自動車)が唯一協力することとなりました。
米ソでは、国家プロジェクトととして多大な予算が組まれ、物的人的資源が注ぎ込まれていたとき、日本では糸川博士の研究班と、富士精密の社員のみなさんがこつこつとロケットを開発していたのです。
1955年になっても海岸はアメリカが占有していたので、打ち上げ場所の選定にも苦心したようです。
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続きは、次回へ・・・
参考文献:やんちゃな独創 糸川英夫伝、的川泰宣
(感想)
参考文献の著者は糸川博士の下で大学院生をされ、日本の宇宙開発に従事されてきた方なので、素の博士を垣間見ることのできるような、さまざまなエピソードが満載でおもしろかったです。
京野四郎さんご推薦の通り、糸川博士の人生に感銘を受けましたので、次回も博士の人生と研究について取り上げてみたいと思います。
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