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2008/09/07 22:00||▲
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| 自然科学館にて
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 自然科学館に行きました。
マンモスがお出迎え。でかさに圧倒されました。 はずかしながら、象くらいかと思ってました。
 オーストラリアに落ちてきた隕石。
でこぼこしていました。
これが宇宙から来たんだと思うと、感激。
 化石。 エウリプテルスという生き物。 時代はメモするのを忘れました。
ユーモラスな外見と保存状態のよさに、驚き。
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2006/05/28 23:21|自己紹介|TB:0|CM:2|▲
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| 柳沢桂子 (生命科学者)
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病気に対して打つ手がなかったときには、医療とは苦しむ人の面倒をみることであり、病人と病気はわけることのできないものであった。
医学が発達して、病気の症状を分析できるようになると、病気と病人は切り離される。
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医学が症状に注意を向ければ向けるほど、病人は疎外されていく。
1920〜1930年ごろのヨーロッパでは、裕福な階層に対しては医師は相談者であったが、貧しい人々に対しては命令的な立場にあった。 医師は医学という後ろ盾によって、病人を選別し、命令する権限を持つようになった。
ここに病気、病人、医者という概念が生まれた。
人間が動物であることを考えれば、病気とは本来自分で感じ、自分で判断するものであったはずである。 ところが医学の発達につれて、病気は医師という見知らぬ人が判断するものになってしまった。
もし、医師が病気でないといえば、患者本人がどのような苦痛を感じていようとも、その人は病人とは認められないのである。
(以上、本文より引用)
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柳沢博士は生命科学者であり、ハツカネズミの先天異常の研究から、動物の発生過程において”T遺伝子”が重要な役割を果たすことを見出しました。
子育てもひと段落し、これから大好きな研究に打ち込める、と思っていた矢先、柳沢博士は原因不明の病に倒れました。 1ヶ月に一度、頭痛、めまい、嘔吐、腹痛、何日も眠り続ける傾眠が起こり、それが2週間続く、という病状が周期的に続きました。
次第に脳貧血で起きていることが困難になり、15分起きているのがやっとの状態にまでなります。 博士は、実験室にベッドを置こうかと真剣に悩んだそうです。 ついには出勤も難しくなり、家に顕微鏡を持ち込んで、文字通り寝ながら研究を続けました。 しかし、事務手続き上、雇用ができない状態になり(ずっと欠勤していたから)、解雇されてしまいます。
なんと、30年以上もの長い間、この病気の原因は不明で全く治療の施しようもなかったそうです。
「何の病気かわからない」ということで、柳沢博士は大変に苦しみました。 「自分が悪いのではないか」と自分で自分を責めてしまったのです。 病気の症状は、介護が必要な期間もあったほどとてもひどく、肉体的な苦痛もひどかったそうですが、博士はそれ以上に精神的に苦しみました。
このような中、博士は「生命現象のすばらしさを書く」という作業を始めました。 苦しい中書き続け、身体のしびれも乗り越えて書き続けました。 本が出版されるのか、わからない状態の中でした。 そんな中、病状が進行して、もう書くことさえできないというところまで行きました。
ところが奇跡的に、偶然処方された抗うつ剤が効き、また書けるところまで回復されました。
柳沢博士は、現在たくさんの著書を出版され、大変に活躍されています。
参考文献:「生命の不思議」柳沢桂子、日本放送出版協会、2000年
(感想) 実は、私の病気も、最初は原因不明でした。
2003年6月ごろから、原因不明の微熱、倦怠感、頭痛、眠気、湿疹などに悩まされました。
その年、私は博士課程の最終学年であったため、肉体的にも精神的にも、かなりの無理をして研究をしていました。
そのときの私の精神状態は、今から思うと異常でした。 「多少の疲れなのに、自分がなまけたいから、大変な状況から逃げ出したいから、具合が悪いと感じるんだ」
柳沢博士の苦しみは、何百分の一ですが、わかる気がします。 そして、博士が見つけた「生命現象のすばらしさ」を書きたい、というお気持ちも。
私の病名は「化学物質過敏症」でした。 このことについては、また後日。
そして、イワンのパパに病気だと認めてもらえなかったイワンの母へ。 苦しい中、よくがんばったね。 いくらオヤジがどなっても、寝ていていいんだよ。
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2006/05/26 09:37|すごい科学者たち|TB:0|CM:2|▲
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| 蓮
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 池に蓮の花が咲いていました。
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2006/05/24 16:36|自己紹介|TB:0|CM:0|▲
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| ニコラウス・コペルニクス (地動説を提唱:1473-1543)
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「“コペルニクス的転回”による精神革命」
コペルニクスは、1473年にポーランドで裕福な商人の家に生まれた。
父親を早くに亡くしたが、教育熱心な司教のおじのおかげで、当時のヨーロッパ文化の中心だったイタリアに、約10年間留学。 ボローニャ大学で教会法を学んでいたが、天体観測にも興味を持った。
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コペルニクスが留学したころのイタリアは、ちょうどルネサンス(文芸復興)の最盛期だった。 つまり、古い考え方が問い直され、新しい考えが次々に打ち出されていた時期だったのである。
このような知的雰囲気の中で、紀元前300年ごろのギリシアの天文学者アリスタルコスの書いた本を、コペルニクスは読んだ。 そこには、
「太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回る」
と書いてあった。
*
現代の私たちの感覚からすれば、当たり前のこと。 しかし、当時はギリシアの天文学者・プトレマイオス(紀元150年ごろ)の「天動説」、すなわち、
「地球の周りを太陽や惑星が回っている」
が信じられていた。
これは、地球(自分)が宇宙の中心にあると考えた方が、人間の自尊心が高められたからだろう、と竹内博士は考察している。 この「人間(地球)が宇宙の中心」との価値観・思想は、当時の科学者たちが、なかなか超えられない壁だった。
*
コペルニクスは、ポーランドに戻った後、医者として生計をたてた。 さらに、おじが亡くなってからは行政にも携わった。
それらの業務の間に、惑星と太陽の運動の問題、すなわち 「天動説」と「地動説」を
「どちらの方がより単純であるか」
という立場から考えてみた。
すると・・・ 「天動説」では、複雑になった惑星の軌道が、 「地動説」では、惑星は太陽を中心とした円運動で説明できたのだ。
水星や金星が地平線近くに見え、明け方や宵にしか見えない理由。 火星、木星、土星が逆行する理由。
それらが、「地動説」では単純明快に証明できたのだった。
(詳しく書きませんが、これらの運動を無理矢理「天動説」に当てはめて考えると、本当に面倒な軌道になるようです。)
*
しかし、コペルニクスは理論の発表には慎重だった。 当時の思想の流れからいって、この理論を発表すれば、迫害されることは必至だったからだ。
1530年ごろ、60歳近くになって、やっと論文をまとめた。 その論文の写しはヨーロッパの学者の間で、密かに回覧された。
熱狂的に支持する人もいれば、徹底的に批判する人もいたが、プロイセンの数学者・レティクスは論文に感激し、コペルニクスの最初の弟子となった。 さらにレティクスは、コペルニクスの理論を紹介した解説書を出版。
この本を読んだローマ法王は、その価値を認め、コペルニクスの全論文をそっくりそのまま出版するようにすすめてくれた。
こうしてコペルニクスの「天体の回転について」(全6巻)は、出版された。
***
竹内博士(本文)より
のちに哲学者カントが表現したように、コペルニクスは、「コペルニクス的転回」によって、地球から宇宙の中心としての位置を奪い去り、それを太陽へ移動した。
これは当時の人々の、神が創造した唯一無二の地球という価値観を変化させた。 さらに宗教観や哲学も変え、近代的な精神への脱皮を促すものであった。
今日では太陽は宇宙の中心としての位置を追われ、直径10万光年のわれわれの銀河系の中心部から約3万光年も離れた、ごく平凡な恒星と考えられている。 この銀河系すらも、宇宙の中心ではない。
宇宙の真理により深く迫れば迫るほど、われわれの自己中心的な考え方はよりうすれてくる。
参考文献:「宇宙は科学の宝庫」竹内均、ニュートンプレス、2002年
(感想)
偏見を捨て去り、「どちらがより単純か」との問いかけから出発したコペルニクスに、研究者としての、基本的でいて最も大切な姿勢を学びました。
また、師のために奔走し、ローマ法王にまでOKを取り付けた弟子・レティクスの姿に感銘を受けました。
ローマ法王って、人によっては(?)柔軟なんですね。
そして、竹内博士の言葉「宇宙の真理により深く迫れば迫るほど、われわれの自己中心的な考え方はよりうすれてくる」は、すばらしいです! 私も、もっと宇宙のことを知ろうと思いました。 また、学校教育や生涯学習での「天文学」が生徒や人々に与える、すばらしい影響の可能性も感じましたよ。
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2006/05/21 20:16|すごい科学者たち|TB:1|CM:1|▲
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| 「マークスの山(文庫版)」 高村 薫 (93年直木賞受賞作品)
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東京で起きた連続殺人事件の犯人を追う、警視庁捜査第一課七係の合田刑事とその仲間たちの話。
一家心中という悲しい過去と精神障害を持つ犯人と、そんな彼を無条件に受け入れ愛する看護婦の愛情物語、そして、山をめぐる男たちの悲しい友情物語でもある。
(以下、ネタバレなしです。)
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(2005.4.2読了)
私の中でのひさびさのヒット作でした。 文庫版で上下巻に分かれていますが、14時間くらいほどんどぶっとおしで、徹夜で読んでしまいました。
事件発覚から犯人逮捕までの18日間くらいが、ものすごいスピード感を持って書かれていたので、途中でやめられずに読んでしまいました。小鳥のさえずりが朝を告げる中で読み終わり、目が痛かったなあ。2日間くらい、まぶたの痙攣が続いたのでした。
読んだときは全く知りませんでしたが、この著者は単行本から文庫本へ移行させる際に、大改稿することで有名らしいです。
この作品をとっても気に入ったので、単行本も読んでみましたが、確かに後半はストーリー自体、かなり変わっていました。 全体的に言って、私は10年の時を経て改稿され出版された文庫版の方が、ストーリー、場面描写、個々の人物がさらに深く掘り下げられているように感じられて、好きです。 例えば、犯人が全く救いようがなくサイコなところとか、義兄殿がクールなところとか。
でも、ネットのファンページを覗いてみると、単行本の方が好き、という人の方が多いようです。
↓ユーズドが1円からあるって、すごいですね。
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2006/05/19 13:14|本の感想|TB:0|CM:4|▲
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| メガネつながり
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 今日、気付きました。私は竹内博士と似たメガネをしています。 形も色も(私の方がオレンジが濃いですが)です!
竹内博士 「ニュートン・前編集長」HPより
無意識でしたが、憧れの博士の真似をしたのかな。
1ヶ月前に買いました。
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2006/05/17 18:27|自己紹介|TB:0|CM:0|▲
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| 飯島先生 (管理人の中学時代の恩師) その2「音信開通」
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管理人の中学時代の恩師、飯島先生がこのブログを見てくれました! (過去の記事はこちら:飯島先生 )
私の父親が、1万ヒット記念に先生に連絡を取ってくれたんです。 オヤジ、ありがとう!
先日、先生にお礼の電話をしました。
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先生はとてもお元気で、私が大学院の博士課程でがんばっていることを喜んでくださっていました。 「教育はすぐに結果はでてこないが、こうして一人の人の人生に深く関われたことがうれしい。教師をしていてよかった」 とも、おっしゃいました。
中学時代の先生に関する思い出で、もう一つ印象深かったことは、先生が「カタツムリの研究」をずっと続けていらっしゃるということでした。 教師というだけでなく、研究者でもあるという姿に、私は憧れたものです。
そこで、私は先生に聞いてみました。
「カタツムリの研究は続けていらっしゃるんですか?」
先生の答えは、 「続けていますよ」 とのことでした! 今、データベース化しているところで、もう少しデータがまとまったら、本にして出版しようと計画されているそうです。
さらに、先生はおっしゃいました。 「年をとっても、打ち込むことがあるから、楽しいよ」
***
年月を経ても、飯島先生はやっぱり私の憧れの先生のままでした。 例え、注目されなくとも、こつこつとカタツムリのデータを積み上げる研究者としての生き方に感銘し、私は「これこそ学問だ!」と思いました。 私自身もそんなふうに生きて行きたい、と決意できました。
飯島先生、ありがとうございます! これからも、私を見守ってくださいね。 私も先生の長年の研究成果が結実した、本の出版を楽しみにしています。
なんと・・話は続きます! その3「感動の再会」へ
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2006/05/14 14:29|すごい科学者たち|TB:0|CM:2|▲
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| エドモンド・ハレー(ハレー彗星発見者:1656-1742)
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思い出の本を紹介したので、ハレー彗星の発見者、エドモンド・ハレーについて書かれている本を読んでみました。
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ハレーはロンドン郊外の裕福な商人の子供として、1656年に生まれた。
成長した後、オックスフォード大学に入学。 ハレーの師は、グリニッジ王立天文台初代台長・フラムスティードだった。 フラムスティードは、グリニッジ天文台の設計と建設を手がけたが、ハレーはこの仕事を手伝い、天体観測の助手を勤めた。
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南半球の星についての観測を計画したハレーは、オックスフォード大学を中退し、東インド会社の船に乗って南太平洋のセントヘレナ島へ向かった。 そこで、300個以上の星の位置をはかった成果を『南天星表』という本としてまとめ、出版した。 ハレーはイギリスに戻ると、これらの功績をまとめた論文により、卒業資格を得た。 そして、22歳で王立協会の会員に推薦され、ニュートンとの付き合いが始まった。 あの、ニュートンの『プリンピキア』を王立協会から出版することを勧めたのは、ハレーだった。
***
1682年に彗星が現れた。 当時、彗星は戦争や飢饉など、悪い出来事の前兆だと考えられ、忌み嫌われていた。 また、一度現れた彗星は流れ星のように、一度きりの存在だと思われていた。
ハレーはニュートンの公式を使って、彗星の軌道を計算してみた。 それまでに、ケプラーによる「惑星は太陽を一つの焦点とした、だ円を描く」という法則は知られていた。 計算により、なんと、彗星の軌道もまた、だ円であることがわかったのだ。 そこでハレーが、当時記録が残っていた24個の彗星の軌道を計算してみたところ、1531年と1607年に現れた彗星の軌道は1682年のものとよく似ていることがわかった。 よって、これらは同じ彗星であり、約76年の周期で太陽を回っているのに違いないと考えるに至った。 そこでハレーは、次は1758年ごろに再び現れると予想した。 ハレーはこの年を待たずに世を去ったが、まさに1758年にこの彗星は再発見されたのだった。 それ以後、この彗星は「ハレー彗星」と呼ばれるようになった。
***
ハレーは旺盛な好奇心で、様々な分野に業績を残した。
・星の固有運動の発見 ・月の長年加速の発見 ・太陽視差測定法の提案 ・死亡統計に基づく年金額の決定の研究 ・世界初の気象地図作製 ・世界初の地磁地図作製 ・地磁気西方移動の発見 ・オーロラの研究 ・貿易風の提唱 など
後に、グリニッジ天文台第二代台長となったハレーは、85歳で亡くなるほんの2,3ヶ月前まで天文台での観測を行っていたといわれる。
参考文献:「宇宙は科学の宝庫」竹内均、ニュートンプレス、2002年
(感想) 上には詳しく書きませんでしたが、ハレーの歴史的な発見は、たった一人の偉大な科学者が全く孤立して見出したというわけではなく、他の科学者たちとのディスカッションによって見出されていったことに驚きました。 これぞ、切磋琢磨!
85歳まで、元気に天体観測を続けていたハレーさん。 とっても充実した、幸せな人生だったでしょうね。
定年前で、燃え尽きそうになっていたのを逆転させ、「コーチング」の勉強に毎日燃えている、58歳のイワンのパパ。 300年前のじーちゃんに負けるな! まだまだ、これからだよ!
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2006/05/11 14:20|すごい科学者たち|TB:3|CM:0|▲
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| 新緑が美しい季節
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 みずみずしい緑に心癒されます。
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2006/05/10 20:12|自己紹介|TB:0|CM:4|▲
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| 「私が科学者を志したわけ」(2)小学校編〜科学誌ニュートンとの出会い〜
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☆こどもの日記念・その2☆
私の両親の学歴は高卒ですが、二人とも知的好奇心にあふれ、私たち子供が興味のあることに近づけてくれたものでした。
両親は、NHKなどの科学番組をよく見ており、今でも私に
「脳についてやってるよ」 「癌についてやってるよ」 「遺伝子についてやってるよ」
と、わざわざ電話で知らせてきてくれます。
私のやっている研究も、何とか理解しようとしてくれます。
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私が、「これがハレー彗星だ!」で、天文学の洗礼を受けた後でした。 (前回参照)
父親が今度は、会社の同僚の方から、科学誌「ニュートン」を借りてきてくれました。
「ニュートン」は地球物理学者の竹内均博士が創刊した、総合科学誌です。
って、少しでも科学に興味のある人なら、今や誰でも知っている雑誌ですよね。
この「ニュートン」は、きれいな写真やイラストがいっぱい使われていて、それを眺めるだけでも楽しかったです。
私は「ニュートン」を読み(ほとんど眺めてた)、小学生ながら最新の科学がわかったような気になって、とっても楽しかった!
・アインシュタインの相対性理論 ・素粒子・クォーク ・ひも理論
など、みんなが知らない、学校でも習わないことを「私は知ってんだぞ!」と、いい気になりましたよ。
それは今も同じか?
ともかく「ニュートン」のおかげで、天文学以外の科学にも興味を持つことができました。
そのころは、精一杯背伸びをして難しいことを覗いているように感じたのに、今では
「日本語でわかりやすく書いてあって、読みやすいなあ」
と思えるようになったのには、感激。
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2006/05/07 16:46|自己紹介|TB:0|CM:4|▲
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| 私が科学者を志したわけ(1) 小学校編〜天文学との出会い〜
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☆こどもの日・記念☆
今日は、こどもの日。 童心に返って、私の子供時代を振り返りたいと思います。
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それまで、私は特に科学や理科に興味があったわけではありませんでした。
長野の山の中で走り回り、泥遊びをしたり、夕方にはアニメの再放送を見たり、ファミコンをしたりと、ぼけ〜っと生きていた小学生でした。 田舎だったので、学習塾にも行っていませんでした。
ところがある日、父親が
「これがハレー彗星だ!」(NHK出版)
という本を買ってきてくれました。
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その本が私の人生を変えたのです。
「なんて美しいんだろう!
なんて宇宙は、美しいんだろう!!」
ハレー彗星は最近では1986年に地球に接近した彗星です。 父親が本を買ってきてくれたのは、その前年の85年だったと思います。
私はその本をきっかけに宇宙に魅了され、宇宙に関する本を読み漁りました。
・太陽系から一番近い恒星は、ケンタウロス座のα星 ・一番明るい恒星は、オオイヌ座のシリウス ・太陽自体は6000度くらいだけど、コロナは100万度
などなどを喜びを持って覚えました。
当然、私の将来の夢は「天文学者」になりました。
これらは、本当に幸福な「原体験」となりました。
何度も何度も、科学に挫折しそうになったとき、「これがハレー彗星だ!」を読み返し、幸福な時期のことを思い出したものです。
あ、小学校時代の担任N先生と作った「空き缶ベル」や「グライダー」もいい思い出ですよ。
☆この文章を父に捧げます。
なんと、この思い出の本は絶版ですが、ユーズドで売っていました。
もちろん、私は今でも大切に持っていますよ。
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2006/05/05 15:56|自己紹介|TB:0|CM:2|▲
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| ワトソン 遺伝子の分子生物学 第5版
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ワトソン 遺伝子の分子生物学 第5版
昨日、この本の夢を見ました。
大学の学部生の頃、分子生物学の基礎を学んだ思い出の教科書です。 通称「ワトソン」(確か第4版、赤い装丁の「上」)でした。
教科書、といってもでかいし、重いし、高い(6000円くらい)し、と 高校までの薄っぺらい教科書との違いを感じ、「大学生になったなあ」と実感させてくれた本でした。
さて、夢の中で〜
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2006/05/03 10:24|自己紹介|TB:0|CM:2|▲
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